2008年2月24日
根源的な欲求に素直であること。それに溺れないこと。それが一番大事。
「走る事のどこが楽しいのか?」って良く聞かれるんだけど、そう聞かれると、大体以下のように答えるわけです。
- 長時間歩き続ける事は出来るんだから、それを少しづつ速めていって、走り続けられるラインを見つける。そういう肉体との対話が面白い。
- 習慣的に続けていると、そうやって維持できるスピードが上がって自分の成長が実感できるのも面白い。
でもよく考えると、そんなめんどくさい事考えなくても、走る事そのものが楽しいよ。だって人間、走れるように出来てるんだから。食べる事が出来るようにね。子供は走り回ってるじゃん。
罰として校庭10周とか、いやおうなしに学校で競争させられたりしたネガティブなイメージが強いから嫌がる人が多いんだけど。
そりゃ、罰としてラーメン10杯とか、クラス一斉ラーメン大食い競争とかさせられてたら、きっとラーメン嫌いになっちゃうよね、悲しい事に。
肉体って、脳みそと並んで自分にとって最も身近な道具で、使えば楽しいし、使えば鍛えられる。使わないと鈍る。鈍らせておくには惜しいよね。
それに、何かができなくなる事は悲しい事だよ。
昔食べられた量が食べられなくなった。昔は瞬時に理解できたものが理解できなくなった。昔は3発出来たのに1発しか出来なくなった(何が?)。昔はしゃべれた外国語がしゃべれなくなった。昔弾けた曲が弾けなくなった。
上に挙げたような事は悲しい事に違いない。それと同様、人間ほとんどの人がせっかく走れるように出来ているのに、その能力をスポイルしてしまうのは勿体無い。
もっと言うと、自分が去勢されたことを想像すると、その絶望感は想像を絶する。それには及ばないにしても、自分が走れると言う事実とその快楽を知ってしまった今、走れなくなる事を考えたくはない。
そう考えると、自分の可能性に気づくって事は、それに縛られるってことなのかもしれないのだけど。
ちなみに、人間の肉体は自転車に乗ったり、ボウリングをしたりするようには出来ていません、実は。別に残念だとも思いませんけど。