2007年3月 5日
もっと自分の感覚に自信を持てばよいのに
はてなダイアリーで注目の記事になったらあっという間にはてな経由のアクセスを稼いでしまってビックリ、とか言う話を大学時代の後輩のmixiの日記で読んだ。それに私も釣られてしまって、そのエントリーを探してしまった。
私も残念ながら現役オタクではないので、分かる話題は少なかったが、「好きなことを好きっていいながらつきすすむ」という言葉が気になった。
「好きだから好き」って言うのは、私にとっても凄く大きな原動力である。シンプルだし、みんなそうすりゃ良いのにとか思ってしまう。ただ、世の中にはそうは思わない人も多いようで、好きなものを本当に好きなのかと疑問を持ってしまう傾向の人が結構いるように感じる。
それは、多くの場合何かを好きになったとして、それに熱中して自分のリソースを注ぎ込んだ挙句に報われないというリスクを恐れてしまっている結果なのだと思う。報いを求めている時点で、本当に好きだとは言い切れないのだが。結局何かを好きになる覚悟が出来ていない。何かが好きな自分に自信が持てないのでしょう。
恋愛で良くあるが、「好きかどうか分からない」とか言っているのはあまりにも情けない。恋愛なんて特に清濁併せ呑む覚悟をする必要があると思うのだが、それができるかどうか自分に自信が持てていないのです。そんなんだったら、さっさと分かれて自分を磨く努力をすれば、と思ってしまう。
好きと決めたら問答無用で突き進めばよいのに。うじうじ躊躇している暇があったら、好きだと決めつけること、好きだと決めたことに自信を持つこと、それに責任を持つこと。そこまでしないと面白くない。前にも書いたが、デブるの気にしてちゃ、ステーキ食えないし、酒も楽しく飲めないわけですよ。
そもそも、好きだなんて気持ちには必然性は全くないのである。例えばバイオリンがなんであの形になったのかと問われれば、「あの形になったから」としか答えようがないのだから。なので、何で好きかと考えてしまって不安になる気持ちも分からないでもないが、いちいち考え込んでも仕方がないのである。
私は今の恋人とはいろいろな偶然が重なって出逢うことが出来たので、出逢うことが出来なかったらと思うとゾッとする。一緒にいてめちゃくちゃしっくりくるし、唯一無二の運命的な出会いとも本気で錯覚してしまう。ただ一方で、タイミングが悪くて今の恋人と出逢えなかったとしても、また別の好きな人を見つけているのだろうな、とも考える理性的な自分もいるのです。それでも、なかなか見つからないだろうとは思う。だからどっちにしても今の恋人は貴重なのですけど。話が分かりにくくなったが、必然的とすら感じてしまうけど、実際は全然必然的ではないということが言いたいのです。
勿論自分が好きになるものには一定の法則があるのだろうし、それに対する分析はある程度可能である。そこから、自分の傾向をつかんでおくことは悪くない。ただ、分析することは可能でも、そこから帰納的に「好きになれるもの」導き出すことは難しい。
つまり、バイオリンのあの形がなぜ素晴らしい音を奏でるのか、という分析は可能でも、その分析結果から全く新しい楽器を作り出すことはまず無理だということだ。同様に良い音楽の傾向を分析することは可能だが、そこから帰納的に新たに素晴らしい楽曲を生み出すことは不可能である。
なので、「○○だから好き」だと考えようとするのは根本的に不毛である。「好きだから好き」としか言いようがないのである。逆に、「好きだから○○」という風に、好きなことを言い訳に使ってしまうのもよろしくないと思う。それは概ね、好きなものに見返りを求めている場合に使用されることが大半だからである。
結論を書くと、
- 「○○だから好き」は不毛
- 「好きだから○○」は疑わしい
- 「好きだから好き」が正解
そういうことです。その感覚をもっと信じてやれば良いと思う。
やっと話をオタクにつなげられるが、オタクってのは「好きなことを好き」と言い切れてしまう人種であると思う。言い切りすぎてしまうことが、一般社会では異質な存在になってしまう理由の一つであるように感じる。そして、「好きだから好き」であることに理由なんてないということが分かってしまっているから、共感を得られない他人への説明を怠ってしまうので余計たちが悪いのでしょう。
ですので「好きだから好き」という言葉を隠れ蓑に使ってしまうと閉鎖的になってしまうので注意したほうが良いということも付け加えておきます。