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2007年12月22日

携帯小説とヤオイに共通点があることに気がついた

携帯小説ってつまり、「レイプ」とか「ドラッグ」とか「セックス」とか「純愛」とかいう言葉が出てくるだけで嬉しいんでしょ。「うんこ」とか「ちんこ」とか言う出てくるだけで嬉しい小学生状態。つまり中二病どころじゃなくもはや小二病。

とか断ずるのは簡単だが、アレが少なからず少女たちの熱狂的な支持を集めているのは間違いない事実である。それはなぜか。

それは、結局あれが「彼女らのリアル」だからなのですよ。

アレのどこがリアルなんだと言う突っ込みはさておいて、話を少し脱線させよう。既に一つのサブカルチャーとして定着した、少女たちが創る奇妙な創作物に「やおい」というものが挙げられる。

実はやおいと携帯小説って少女が創ったものという以上に共通点が多い。現代社会において思春期の少女ってのは往々にして生きづらさを抱えながら生きているものだが、その発露として顕れてきた創作体系だということが二つの一番大きな共通点。

思春期の少女たちが抱えている感情として以下のものが挙げられる。

  • 自分が生きていることを実感したい
  • 自分の生を何モノかに承認して欲しい
  • 大人になりたくない

そして、それぞれの作品の中で具体的に見られる傾向は以下。

  • 登場人物に痛みが与えられる
  • 能動側と受動側がはっきり分かれている
  • ファンタジー(全然リアリティーがない、生々しくない)

こう並べると分かりやすいと思うが、もちろん上下のリストは対応している。そして、それぞれが絡み合っている。

自傷行為を繰り返す少女が、その痛みによって生きていることを再確認するように(人にも因るが)、痛みを感じる事によって、登場人物は生きていることを実感する。

また、自分に痛みを与えてくれる他者、自分が何も与えなくても無条件でちやほやしてくれる他者(=純愛w)の存在は、登場人物の存在を承認し、生への実感を補強してくれる。

特に、相手が死んだりすると最高だよね。死者は裏切らない。他人が人生を賭してまで自分の生を承認してくれるんだから、この上ない快感だよ。

つまり、生きることに対する実感を感じられていない現代の少女たちにとって、そのような主人公を追体験することは、生きていることを実感できる数少ないチャンスなのです。それが多くの共感を生み出してもいる。

そこでやっと生きている実感を感じられるのだから、アレだけ荒唐無稽な内容であっても「私たちのリアル」になるわけです。

生きている実感を感じられていないことに対して、「今のコは感性が磨耗している」と断ずるのも簡単だが、まあ、そうなってしまっている社会的背景もあるわけですよ。

中島梓のコミュニケーション不全症候群には以下のような記述がある。

私たちはちょうど、ごく小さい穴の中からしか世界をみられないようにの閉じ込められたものがその穴を通してしか世界の形を理解できないのと同じようにそれぞれの選択した過剰さの形式を通じてだけ世界を理解するだろう。
スプラッタ・ムービーが象徴するこの一方通行の典型的な関係性こそがコミュニケーション不全症候群の本質である。おタクのアニメ、パソコン、ゲームに対する関係性、JUNE文化に共通するSとM、強姦者と被強姦者の関係性、それらが意味するものは、私たちがもはやはっきりとそのように意図し、そのために自分を訓練してゆかなくては、一方的でないような、かつては全く当たり前と考えられていたような相互的な人間関係を築くことができなくなってしまった、という事実である。

リストの最後の「大人になりたくない」と「ファンタジー」に関してはもう分かると思うが、携帯小説にしてもヤオイにしても、リアリティがなかろうがかまわないのである。むしろそっちのほうが、「リアル」だったりするわけだ。生を実感できない現実より虚構のほうが共感できる。

携帯小説においては空虚な過激さが上滑りしていてリアリティを失っているし、やおいでは、汚物が出現しない(と言うよりタブー視されている)性交が描かれている。

ちなみに、やおいには「大人になりたくない」というメッセージ性が強く見られる。少なくともやおいの黎明期においては、少年と言う存在に対して、「いくら犯されても処女性を失わない永遠の少女」という理想を重ね合わせていた図が多かった(らしい)

このあたりのことも、コミュニケーション不全症候群に書いてあったと思う。このエントリーを書くに当たって、ちょっとこの本を10年ぶりに引っ張り出して10分くらいぱらぱらめくってみたが、つくづく名文ぞろいでビックリした。さっきの引用もちょっと目に付いたものを引用しただけに過ぎない。しっかり読んだら、同レベルの文がごろごろ出てくると思う。

で、結局携帯小説が今何故ヒットしているかと言うと、やおいと同様に

  • 少女たちの生きづらさに対する(無意識の)メッセージがこめられているところ
  • 読者(そして作者)が登場人物に自分を重ね合わせ、共感を生み出しているところ

と言うところが大きいのでしょう。そして、思いつきを垂れ流しているだけで、自分が何故そういうことを書きたがるのかを考えず、深いところまで自己分析が出来てない時点で創作物としては二流以下なのは確かです。少なくとも現状は。これから文化として根付くとどうなるかはわからない。

投稿者 Songmu : 2007年12月22日 04:03