2009年3月25日
マラソンが神聖だという幻想は走らない人たちから産まれる
http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20090325
リンク先で東京マラソンへの無謀な挑戦が話題になっている。私もマスコミのマラソンマンセーな空気には気持ち悪いものを感じている。
デブな芸人が一人死に掛けている事もあるが、要は軽装で雪山登山に行って死ぬのと同じ事だ。人知れず死ぬなら構わないが、人前でやられるのは迷惑だ。誰もいないところで一人で走って勝手に死ね。
きっと、餅をのどに詰まらせて死ぬのと同じで、マラソンで死ぬのも仕方ないことなのでしょう。マラソンは「正義」だから。これが自転車レースだったら捉えられ方はまた違う。
私がマラソンや自転車ロードレースを嗜んでいて感じるのは、定期的に身体を動かす人間と動かさない人間との間の、持久系スポーツに対する捉え方への大きなすれ違いだ。
どうも、多くの日本人には「自ら進んで苦しい思いをすることは偉い」と言う妙な精神論がまかり通っているように感じます。24時間マラソンとかは私は大嫌いです。
誰かがやらなくてはいけなくて、多くの人がやりたがらない事を率先してやる事は偉いのかも知れない。しかし、わざわざ無駄に辛い思いをするのは間違いなく「大馬鹿」ですよ。それを自主的にやっているのだとしたら、馬鹿をやること、無茶をすることが楽しいからやっているのです。
楽しいからやっているのに「偉い」とか言われたんじゃ興醒めです。よくこの例え出すけど、好きでSEXしてるのに「少子化問題に意識的で偉いわねぇ」とか言われたんじゃ、げんなり。
そう、本人は楽しい。そしてそういった場合は、多くの快楽と同様に自重が必要なときもある。
飲酒運転だって「気を付けて」運転すればそうそう事故は起きないに違いない。それでも、飲酒運転同様、気を付けきれない確率が比較的高いから妊婦やデブがマラソンを走っちゃまずいのである。妊婦の酒やタバコがまずくて、マラソンが賞賛されるのは、マラソンが「正義」として歪められてまかり通っているからである。
沿道で「頑張れ~」とか必死に応援している人も、多くは走った事の無い人たちだが一回走ってみれば良いと思う。そうしたら、どういう気持ちでランナーが走っているのかを少しは理解する事が出来るだろう。それは沿道で応援していたときに想像していたランナーの心境とは大きく違うはずだ。決して苦行のために走っているわけではない。
実際、私がマラソンに出場しているときには「頑張れ」とか応援してもらっても、「いや、俺は頑張らない」とか思いながら走っていたりします、失礼な話だが。別に辛い思いをしに来ているわけじゃないし、頑張らないで走りきれたら良いと思っているので。
ただ、余裕がなくなってへろへろになったりしたら、沿道の応援はすごくありがたいもんで、不思議と力が湧きます。ただ、やはりそうなるのは本来はよろしくなくて、何事も余裕がなくなったらダメです。酒でぶっ倒れたヤツを介抱するのは当然だけど、最初からぶっ倒れて周りに迷惑をかけることを前提に酒を飲み出したらまずいでしょう。
そんな風に、走る人と走らない人との意識の差が激しいので、市民ランナーもたまにはボランティア側に回ったりした方が良いんだろな、とも感じます。ボランティアの人で健康体の人もたまには走る側で参加すれば良いと思う。まずは10kmとかで良いから。現状、走る事を知らない人たちのボランティアで多くの大会が成り立っているとしたら、すごく奇妙で歪つな感じがします。
また、近年のマラソンブームの中で、参加者の中にも普段特に何の努力せず、いきなりマラソンに出て、それで辛い思いをすれば何か変われるかも知れないとか短絡的に考えている人が増えてきている気がします。これもまた「辛い思いをする事が偉い」と言う勘違い。
何事も努力の過程で辛さを感じることはあるが、辛さ自体は目的ではない。それなのに、どこかで手段と目的が入れ替わって、辛さを感じること自体が目的になる。もっと言えば「辛い思いをする事で、努力している気になっている」のだ。馬鹿馬鹿しい。
辛い思いをした結果良いことはありません。それこそ、たった半日走ってその場で辛い思いをしたところで自分の世界は勘違い以上には何も変わらない。
自分を変えることが出来るのは、日々の積み重ねだけです。マラソン等への出場はその成果を試す場であり、辛い場所ではなく楽しい場所なのです。
マラソン自体が無条件で神聖なものと捉えられているのは、いちランナーとして非常に気持ち悪いし、危うさも感じる。マラソンに出ることは偉くもなんとも無いし、常連出場者は皆好きでやってるんです。勝手に幻想を抱かないで下さい。きちんとトレーニングを積めば、健康体の人は誰だって走れます。
何かを「自分とは無縁だけど尊い」と感じる事は何かを「蔑む」ことと実は変わりません。