おそらくはそれさえも平凡な日々

40歳になった話

6月5日が誕生日なのでもうひと月以上経っている。同じ日に娘が5歳になった。

40歳は社会人の折返しとも言えるし、人生の折返しとも言えるなかなかおもしろい年齢だ。20年前が20歳だったので、それを踏まえて20年後の60歳がどうなっているかなんとなく見通しが立つ気がする。気がするだけだとは思う。

40代の挑戦を考えた時に、新型コロナで世の中が大きく動き、逆に次の動きが読めない中、僕自身は去年から既にNature社での新しい挑戦を始められていて、40代もそれでスタートを切れるというのは幸いに思う。

前職の元CTOで僕の元上司である @stanaka さんが、はてなを辞めるタイミングで「10年スパンでキャリアを考えている」みたいなことを言っていて、そのときは「そんなもんかね」と思っていたが、なんだかんだで影響を受けている。

やっと大人になった気もしてくる。自分の10代と親が40代だったころがちょうどかぶっていて、よくコミュニケーションを取っていたので、自分が大人だと意識している年代がそれくらいだというのもあるだろう。

父が去年亡くなり、それ自体がそこまで影響しているわけでもないとは思うが、なんとなく子供の将来のことや老後や死後のことなども考え始めて、資産の見直しもしつつ、iDeCoや、つみたてNISAを始めるなどした。

数年くらい前から思っているのは「どうやら自分は死ぬらしい」ということ。つまり、この感じだと「完全電脳化は間に合わない」。僕としてはあまり「電脳化をして不老不死になりたい」みたいな強い欲求があるわけではない。ただ、そのような技術が一般的になれば死なない可能性もあるのかな?とか考えていたくらいなのだが、どうもそれが自分の死までには間に合わなさそうだな、と。

電脳化は単に技術だけの話じゃなくて、所謂「倫理」と言われるような人類の価値観のアップデートも必要になる。多分自分はその価値観のアップデートができない側になるだろうな、とも。例えば、一回電源が落ちて再起動してきた自分の電脳を「死んでない」と受け入れられるかというと、僕には難しいんじゃないかと。将来的に人類はそれを易易と受け入れるだろうし、それは全く悪いことだとも思わない。

イーロン・マスクらが進めているように「電脳化手術」自体は僕の生きているうちには始まるでしょう。当初は不死を目的するものではないにせよ。それらはきっとレーシック手術が受け入れられていった過程のように、それより時間はかかるけど、世に膾炙していくのでしょう。その黎明が見られそうなことは楽しみにしている。

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2020-07-20T02:41:45+0900

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