コミュ力が無いのはいつだって自分
突然何を言い出すのかという話ですが、対話相手にコミュニケーション能力を求める醜さについて書きたくなったので書きます。
僕はオタクだったしスクールカーストで言うと下の方を彷徨ってきた。地元でもいろいろあって浮いていた。新卒時の就活も散々だった。なので、コミュ力がないことは自覚しているし、だからこそ「コミュニケーション能力」という言葉には警戒心があります。
比較的マイノリティであったことが多かった経験上分かったのは、相手とコミュニケーションが取りづらいな、と思うときは、そもそもプロトコルが異なる、ということです。
これは、話している自然言語が違うようなものだと考えるとわかりやすい。例えば、自分が日本語しか話せず、相手がロシア語しか話せないのであれば、まともなコミュニケーションが成り立たないのは明らかです。そして、その時に、日本語が話せない相手にコミュ力がないと思うような人はいないでしょう。
それが、実際のコミュニケーションになると、不思議と相手のコミュ力不足を断じるような人がでてきます。
例えば「最近の若者はコミュ力が云々」みたいなのは、老害が若者語を話せず、若者は老害語を話したくもない、というだけの話でしかありません。同様にリア充が非コミュを見下すのも、リア充が非コミュ語を話せず、非コミュがリア充語を話せないという話でしか無いのです。
もちろん、それぞれのプロコトルを使いこなして、それぞれのクラスタの人とうまくコミュニケーションが取れる人もいる。そういう人はマルチリンガルみたいなもので、コミュ力が高いと言えるのは間違いない。
ただ、コミュニケーションが取れない時に、それを相手のコミュ力のせいにするのは知性と人間性の欠如でしかありません。一般的に何らかの問題が起こっているときに、それを自分のせいにするか、相手のせいにするかで、その人の知性や人間性が試されます。
自分をマジョリティだと思っている人、コミュ力があると勘違いしている人は、普段は自分の周辺の大半の人とのコミュニケーションには困らないので、自分と違うコミュニティの人と意思疎通ができなかった時には相手のコミュ力を見下しがちです。
ただ、自然言語に置き換えると、別に言語話者の多寡はコミュ力とは関係ないのは明らかです。日本語話者より中国語話者の方がコミュ力が高いと言われて納得できる人はいないでしょう。
それに、コミュニケーションが取れない以上、自分の方が多数派だとは限りません。相手は、サンスクリット語を話しているかもしれないし、ヒンディー語を話しているかも知れません。ヒンディー語話者は身近には居ないかもしれませんが、世界的には日本語の5倍くらいの話者がいます。
実際、コミュニケーションが全く成り立たない人、というのもいます。ただそれは、自分と相手のプロトコルの問題であって、どちらかのコミュ力の高低の問題ではない。そう僕は考えるようにしています。相手とコミュニケーションが取れるか取れないかという事実だけがあり、それをどう捉えるか、という話です。
じゃあ、人間はコミュニケーションプロトコルが近しい人とだけコミュニケーションを取っていればいいかというと、そういうわけではないと考えています。
異質なものとコミュニケーションを取っていかないと変化や成長はありません。身近な人と慣れ合っていても成長が望めないというのはその裏返しです。生物の交配と同じような話で、長い目で見ると生き残れなくなる可能性があります。
また、コミュニケーションは、コストとリターンの話でもあります。相手とコミュニケーションを取るためにこちらがどれくらいのコストを払い、どれくらいの見返りが得られるか、ということです。これは相手にとっても同じです。
だから、お互いが支払うコストに対して、リターンが多いという合意が取れた場合に、健全なコミュニケーションが成り立つと言えます。
一般的に、コミュニケーションプロトコルが近い相手とのコミュニケーションは、ローコスト・ロー(〜ミドル)リターンです。そして、それが遠い相手とは、遠くなるほどコストは高くなり、リターンは未知数です。
まず、お互いのプロトコルが違いすぎて、お互いのリターンが見込めない時、むしろマイナスになりそうな時は、意識的に関わらないようにすることも大事です。これはすごく大事。
そして、お互いのプロトコルが異なりつつも、リターンの期待値を上げたい場合には、自分からコミュニケーションを取りに行くことが大事だと思ってます。
コミュニケーション能力があるとみなされている人は、ここが上手い。僕なんかは、そうやったほうがいいと思っても躊躇してしまってなかなかできなかったりするのです。ただ、少なくとも、コミュニケーションが取れない理由を相手のせいにしないで歩み寄ることを心がけていて「コミュ力が無いのはいつだって自分」だと思うようにはしています。
いろいろな人とコミュニケーションが取れるようになると、色々なプロトコルを操れるようになって、コミュニケーションの精度も上がっていくのでしょう。自然言語の習得とかも近い話であるようにも感じます。
なんでこういうこと書いたのかというと、採用とかマネージメントに関わるようになって、コミュニケーションってなんだろうなーとか考えたりすることが増えた影響が大きそう。